院長ブログ
1月17日の記憶
2021.01.17

1月17日の記憶

僕の実家は兵庫県神戸市にある。 今日1月17日は阪神大震災から26年に当たる日だ。 あの時僕はまだ三重大学に通う医学部の学生だった。当時5年生。病院実習中の学生だ。 いつもならサボり学生らしく朝寝坊して遅めに行くはずだったのだが早朝の妙な揺れで目が覚めた。まだ6時前。揺れが長い。 これは大きいぞ。どこだろう。 寝坊学生はすぐに飛び起きてすぐにテレビをつけた。まだネットなんてなかった時代だったから情報源はテレビかラジオ。 NHKでは地震情報がすぐに映し出された。大阪が震度6。岡山震度5。うわ、これは大きいな。 だけど僕の住んでいた神戸は表示がなかった。 時間が経ち、どんどん震度の表示が増えていく。僕は三重県にいたのだが、三重県でも震度3だという。 10分くらいテレビに釘付けになっていたが、しばらくして「神戸」の震度が映し出された。アナウンサーの声が上ずる。 「神戸、震度7です!」聞いたこともない震度だった。 直後に神戸の実家から電話がかかってきた。母親からだった。 「すごい地震だった。こっちは停電して真っ暗。街を見たらあちこちで火が上がっている!情報が何にもないから何が起こっているのか全然わからない。こっちは怪我もないからとりあえず大丈夫」 とだけ言って電話が切れた。実家は無事のようだ。少しほっとした。 電話が切れたその直後、テレビでは早速ヘリコプターの中継画面が映し出されている。息を飲んだ。 「阪神高速道路が倒壊しています!」スキーバスがかろうじて転落を免れて高速道路の端っこに引っかかっている。 ほんの2週間ほど前に自分の車でそこを通って三重まで帰ってきたのに。 これはとんでもないことが起きてるぞ! 驚いて実家に電話をかけたがもうつながらない。地震後にすぐに電話をくれた母親の機転は素晴らしいものだった。なぜならそれから3日間は全く電話がつながらなかったから。 家族の身体ダメージはなかったというのでまずは一安心したが、毎日朝から晩までテレビで届けれらる地震の光景は凄まじかった。 さらには死者の数がどんどん増えていく。地震後4日目に実家から電話があり、「こっちきても何にもモノがないから今はきちゃダメ」と言われた。 病院実習を続けながら悶々とした日々を過ごしていたが、1週間ほどたったある日、心に決めた。 被災地に行く。 自分はまだ医者じゃないから怪我や病気を見ることはできないけれど、きっと役に立つこともある、と勝手に自分に言い聞かせて下宿を車で出た。 昼間は救援物資を運ぶ自動車が優先で道路が封鎖されているのため真夜中に家を出た。 途中大阪を過ぎて宝塚に入った頃、高速道路上に異様な段差ができていてここは被災地だということを痛感する。しばらくして裏六甲に到着した。 褒められたことではないが、六甲山の裏側から神戸市内にアクセスできるトンネルを人目につかぬようこっそり通り抜けた。 本来は救援物資を運ぶ車のみ通行が許可されていたのだが、監視しているはずのパトカーの乗員は深夜ということもあってぐっすり眠っていた。 今思えば普通ではそんなことがあるわけがないので、もしかすると神様のお導きだったのかもしれない。 そして誰も走っていないトンネル道路を抜け、運よく深夜の神戸市内に入ることができた。 そこで見た光景は今でも忘れることができない。 道路がまるで波のように縦に波打っているではないか。中央分離帯も歩道もグニャグニャ。車は徐行しないと段差で飛び上がってしまう。 そこら中のビルというビルは斜めになり、隣のビルにもたれかかっている。 しかも繁華街である三宮は電気がついてなくて真っ暗。ひとけもなくゴーストタウンのようだ。 ここはどこだ??自分の知らない世界に来てしまったような恐怖を覚えながら国道2号線を東に車を走らせる。 ナビもない時代、いつもたばこ屋の角を左、と覚えていたのだが、一向にたばこ屋が見つからない。ここの辺のはずだが、という場所は瓦礫がうず高く積まれている。 おかしいな、と思いながら左折をしたら思ったよりずっと行き過ぎていた。少し戻って交差点を曲がり直す。 曲がったところの光景に驚愕した。 僕がよく利用していた駅の周辺。マンションのような強固な建物以外、全て瓦礫に化していた。JR線の高架は落ち、行手を塞いでいる。 高架をいくつか探し、車がやっと通れる高さのところを見つけてなんとかくぐった。 実家への坂道をそろそろ車で登る。左を見るとコンクリートでできた集合住宅の1階は崩れて存在していない。住民はどうなったのだろう?救出できたのか? いろんな思いが交差しながら実家についた。 ひとまずねぎらいの言葉。1週間は水がなくて大変だったと。両親は弟とともに近くの神社の井戸まで毎日水を汲みに行っていたとのことだった。 自衛隊が水をもって来たのは5日目だったとか。しかも少量の飲料水のみ。だからトイレを流すのも大変だったそうだ。 僕は一休みして翌日からボランティアの職を探して区役所へ。 学生だ、ということを伝えると被害状況を調査する部署に配属された。 僕の役目は被害状況を地図に記載すること。現地調査員から次々届く被害報告書を読んで地図に落とし込む。全壊は赤、半壊は黄色。地図のほとんどは赤で埋まる。 ほとんどの区画でまともな家屋はない。 地図を見ているとたった数百メートル、いや数十メートルの差でこっちの区画はほぼ全員生存、こっちの区画は死亡者多数。これは運命なんだろうかと思わざるを得なかった。 ボランティアはお昼までだったので午後は近くを散策した。 県道沿いは火災もあったため一面焼け野原だ。 壊れた木造アパートはまるで”8時だよ全員集合”のセットのように部屋とトイレがむき出しでこちらを向いている。 2階まで届く鉄製の外階段だけが取り残されて、2階まであるはずの建物は1階分の高さしかない。 アパートの前には板切れをまっすぐ突き刺してあり、こう書いてあった。 探しにきた親族に向けてだろうか。「〇〇◯さんと△△さんはこちらで亡くなりました」 こんな板切れで肉親の死を知るなんてつらいよな。すっかり変わってしまった街の風景に寒さも相まって思わず涙がでた。 被災地では物資が不足し毎日生きるのも大変だが、地震の被害がなかった地域では何もなかったかのような普通の日常がある。そのギャップに頭が混乱しそうだった。 約1週間のボランティア活動ののち、三重に戻り、もとの医学生に戻った。 大学に戻った後は突然病院実習からいなくなったことを大学の事務部にずいぶん責められたのだが、しおらしく謝ることもなく、あろうことには事務部と大喧嘩をして、結果欠席した神経内科の病院実習を夏休みに一人ぼっちで受けることになった。 どんなに叱られようがペナルティーを受けようが今でも何の後悔もない。 あの時感じたことはあの時にしか得られないことだったから。 震災の大被害を自分のこの目で見てからか、人の死はいつ突然訪れるかわからない。だから今の瞬間を一生懸命生きるんだ、と考えるようになった。 今、仕事も遊びも一生懸命頑張れるのはきっとあの時の体験があるからだと、1月17日が来るたび毎年思う。                                                            

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